なぜ大化の改新が起こったのか。その後の日本の変化とは?
唐の成立と東アジアの緊張
7世紀初めに隋は滅び、唐が中国を統一。
ここから日本は平安時代に至るまで遣唐使を15回派遣し、官僚中心の律令体制などを学び、これを日本にも取り入れようとする。

遣唐使の航路
最初は、外海を避けた安全な北路を使っていたが、朝鮮半島の新羅との関係が悪化したため、九州から直接大陸を目指す南路をとるようになる。
唐が高句麗を攻撃したため、百済、新羅、日本の緊張が高まる。
大化の改新
聖徳太子は、冠位十二階の制度や十七条の憲法などを通して、豪族から官僚中心の政治システムに改革しようとした。
しかし、聖徳太子、蘇我馬子の死後、馬子の子である蘇我蝦夷、孫の入鹿は再び豪族中心の政治に戻そうとした。
その当時の皇極天皇の子、中大兄皇子とその腹心の中臣鎌足は、隋や唐から戻って来た遣唐使から、中国が律令制度に基づく官僚国家を作っていることを学んでいたため、腐敗した豪族による政治を改めようと画策した。
中大兄皇子と中臣鎌足は、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を殺害した。
また、蝦夷も自殺に追い込み、政治から蘇我氏を排除した。
これは乙巳〔いっし〕の変と呼ばれる。

この後、両者によってなされた政治改革を大化の改新という。中国にならって「大化」という日本初の元号も制定された。
改新の詔〔大化の改新によって実現しようとした政治内容とは?〕
公地・公民
皇族や豪族が持っている土地や人民を国家が直接支配する公地公民制を実施した。
私有地で私有民を働かせることによって、私服を肥やすことを禁止し、豪族は「官僚」として給与を支給。
天皇に富と権力が集中する体制を構築しようとした。
班田収授の開始
奈良時代に完成を見るが、天皇に安定的な税収が入るよう、戸籍をつくり民衆に土地を割り当てて耕作にあたらせ、一定の年貢を納めさせるとともに、死後はその土地を返還される「班田収授」のベースを整えていった。
白村江の戦い
朝鮮半島では、新羅が中国の唐と組んで、百済を滅ぼす。
滅ぼされた百済の旧家臣たちは、百済復活のために日本に救済を求める。
日本と関係の深かった伽耶地域だけでなく、百済まで滅びると、日本の朝鮮半島への足がかりがなくなる〔例えば、遣唐使の派遣の際、朝鮮半島の近くと通れなくなるなど。〕のを防ぐため、日本は遠征軍を派遣。
しかし、神風は吹かず、日本は大敗する。
この時代、作戦や計画がなくても、神仏のご加護があれば、戦いに勝利できると、本当に信じられていたが、世の中そんなに甘くない。
この戦いを白村江〔はくすきのえ〕の戦いという。

大国の唐と戦ったが、白村江の戦いに敗れたため、中大兄皇子は、大陸からの報復攻撃を恐れて、九州の大宰府を守るための水城や山城を築き、守りを固める。
それだけでは飽き足らず、海から遠く、外敵からの防衛に適しているという理由で、今の滋賀県、琵琶湖のほとりの大津宮に都を遷した。
百済遠征中にすでに斉明天皇は亡くなっていたが、中大兄皇子はここでやっと天皇に即位する。
天智天皇となった中大兄皇子は、それまでに出された法令の整理や編集を行い、戸籍も全国を対象とした。
後に完成する大宝律令の準備や班田収授法の法の準備が進められていた。
これによって、税金の取り立てや、徴兵がスムーズに行えるようになったが、地方豪族の所有する土地や民を取り上げることになったため、地方豪族の不満は高まった。
壬申の乱
天智天皇は即位して4年で崩御したが、その後継者争いとして壬申の乱がおこる。

天智天皇ははじめ、弟の大海人皇子を後継者にしていたが、晩年は子どもである大友皇子に皇位を譲ろうとした。
大海人皇子は天智天皇が生きている間は、兄の意思に従うふりをしていたが、天智天皇の死後、挙兵をし、大友皇子を倒し、天武天皇となる。
天武天皇の政治
天武天皇は、武力で天皇になったため、壬申の乱の時に敵だった豪族を一掃した。
また、大臣を置かず、皇后や皇子たちを重要な地位につけた政治をしたため、自由かつ大胆な改革をしている。
色々な取り組みが完成する前に亡くなってしまったため、中学の教科書などではかなりあっさりとした記述しかないが、のちの日本の基礎を作るきっかけとなった天皇といえる。
それまで「大王」(おおきみ)と呼ばれていた統治者の呼び名が「天皇」に変わったのは天武天皇からだし、この頃から国号を「日本」と称するようになったとされる。
さらに、天武天皇は律令の編纂に着手し、天皇を中心とする中央集権国家の形成を図った。
また、天皇が変わるたびに都を遷すことによる財政を逼迫を防ぐため、現在の奈良県に藤原京の造営を開始させた。
他にも、富本銭という貨幣を作らせたり、のちに「古事記」「日本書紀」につながる歴史書の編纂事業も天武天皇の時代に開始された。
持統天皇の政治
天武天皇が亡くなった後、天武天皇の皇后が持統天皇となり、天武天皇がやり残した事業を引き継ぎ、発展させた。
まず、天武天皇が造らせた律令〔飛鳥浄御原令〕を施行した。
これによって戸籍の実施や地方行政制度が実施され、全国的な班田収授も開始された。
また、縦、横5.3㎞に及ぶ大規模な都、藤原京が完成し、遷都を実施した。
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